受賞年 | 2023年(第65回) |
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部門 | 最優秀グローバル音楽アルバム賞
※非西洋の民族音楽・伝統音楽に基づく作品が部門 |
受賞作品 | 「Sakura(サクラ)」
日本の伝統音楽を、米国流の現代風にアレンジした。三味線や箏(こと)などの和楽器で奏でる。二胡やバンブーフルート、また世界各国のパーカッションなども取り入れた。 桜の花の美しさや儚(はかな)さが表現されている。 |
説明 |
大阪出身。日本の音楽界で活躍した後、米国に転居。西海岸を拠点に活動している。
レゲエバンド「スライ&ロビー・アンド・ザ・ジャム・マスターズ」のメンバーとして参加したアルバムで、2014年(第56回)グラミー賞レゲエ部門のノミネートに名を連ねた。 今回は、ソロの音楽家として初めてノミネートを獲得し、初受賞となった。 昭和の人気歌手・西城秀樹の甥(おい)であり、若いころに西城さんのバックバンドで演奏した経験もある。 1978年生まれ。小学校のブラスバンド部のトランペットを演奏し、音楽に目覚めた。13歳の時に出会ったX JAPANのYOSHIKIの音楽に大きな影響を受けたという。以来、バンドを組みながら作曲を手掛けるようになり、独学でドラム、ギター、ベース、ピアノなどの楽器を全て演奏するようになった。2000年、ロックバンドの一員としてデビュー。作曲家やプロデューサーとして、EXILE、AAA、DA PUMPなどの楽曲を手掛けた。 |
受賞時の年齢 | 44歳 |
参照 | グラミー賞公式ページ→ |
受賞コメント | 「自分を育ててくれた日本の音楽業界、また迎え入れてくれたアメリカの音楽業界に感謝したい」 |
<曲の動画> <受賞スピーチ> |
受賞年 | 2016年(第58回) |
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部門 | 最優秀オペラ・レコード賞
(Best Opera Recording) |
受賞作品 | アルバム「ラヴェル:歌劇『こどもと魔法』」
(Ravel:L'Enfant Et Les Sortileges; Sheherazade) |
受賞時の年齢 | 80歳 |
参照 | グラミー賞公式ページ→ |
説明 |
ラベル作曲の歌劇「こどもと魔法」を収めたアルバム。
「こどもと魔法」とはフランスの作曲家モーリス・ラベルが作曲したオペラ。 子供から傷つけられた家具や動植物がひっきりなしに登場し、こどもを責めるコミカルな内容。 全曲45分ほどの短いオペラだが、それだけに濃密な緊張が必要となる。 小澤征爾にとっては1979年、パリ・オペラ座でのデビューを飾った、愛着も深い作品とみられる。演奏者:サイトウ・キネン・オーケストラサイトウ・キネン・オーケストラは、小澤征爾さんが1984年、恩師である音楽家の斎藤秀雄氏(1902~1974年)をしのんで、斎藤氏の門下生と一緒に作った。 長野県松本市で毎年夏に開催される音楽祭「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」(現:セイジ・オザワ松本フェスティバル)を中心に演奏活動を行って来た。 同フェスティバルは、同オーケストラの主導で1992年に始まった。小澤氏が総監督を務める。録音は2013年アルバムは、2013年の「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のオペラ公演で収録された。 2010年に食道がんを手術し、その後の体調不良で2012年3月から演奏活動を休んでいた小沢さんにとって、この舞台は完全休養からの復帰の場だった。 小澤さんは全4日のステージを指揮した。名手ぞろいのサイトウ・キネン・オーケストラを指揮し、繊細で色彩感あふれる演奏を繰り広げ、幻想的なオペラを彩った。国際盤が2015年夏に発売CDは日本国内で翌2014年夏に発売された。2009年に同じコンビで演奏した「シェエラザード」などを併録して、インターナショナル盤が2015年夏にリリースされた。 |
受賞コメント | 「(受賞アルバム収録の)『こどもと魔法』は僕の大事な仲間であるサイトウ・キネン・オーケストラとすばらしい歌い手たちとつくった作品で、彼らのおかげで充実した練習と公演ができてとても楽しかった。それが松本のフェスティバルの力なのだと思う。たいへんうれしく、みんなと創れたことを誇りに思います」 |
<動画> |
1935年、旧満州奉天市(現中国瀋陽市)生まれ。
1959年にフランス・ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。
1973~2002年、米ボストン交響楽団の音楽監督を務めた。
「世界のオザワ」として国際的評価を確立した。
2002年にはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートを日本人として初めて指揮。 ウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めた。
長野県松本市の「セイジ・オザワ松本フェスティバル」総監督、水戸芸術館館長も務める。
2008年に文化勲章。
2010年に食道がんの摘出手術を受けた。
受賞年 | 2017年(第59回) |
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部門 | 最優秀クラシック独唱賞
(Best Classical Solo Vocal Album) |
受賞作品 | アルバム「シューマン リーダークライス他」
(Schumann & Berg) ソプラノ歌手ドロテア・レシュマン(Dorothea Röschmann)さんと共演 |
参照 | グラミー賞公式ページ→ |
受賞時の年齢 | 68歳 |
<動画> |
受賞年 | 2011年(第53回) |
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部門 | 楽器独演(オーケストラ共演)賞
=最優秀インストゥルメンタル・ソリスト・パフォーマンス(ウィズ・オーケストラ)賞 =Best Instrumental Soloist(s) Performance (with Orchestra) |
作品名 | 「内田光子&クリーブランド管弦楽団 モーツァルト・ピアノ協奏曲 第23番&第24番」
(Mozart: Piano Concertos Nos. 23 & 24) クリーブランド管弦楽団と共演 モーツァルト作品を収録。 (2008年録音、ユニバーサル) |
説明 | 指揮も内田が担当する、いわゆる“弾き振り”のライブ演奏。
録音会場は、名ホールとして名高いセベランス・ホールが使われている。 |
受賞時の年齢 | 62歳 |
受賞コメント | 「受賞を大変うれしく思っております。なぜなら、クリーブランド管弦楽団とのモーツァルト・シリーズの最初の録音に対してだからです。私は彼らと長く一緒に仕事をしてきましたので、この受賞は私にとって特別な喜びです」 |
祝福コメント | デビューのころからつきあいのある指揮者、小澤征爾(当時75歳)
「私は内田さんのことをいつも世界を舞台に頑張っている妹を見るような気持ちで応援してきました。ですから彼女の今回の受賞を心の底からうれしく思っています」「彼女の今回の受賞は日本の若い人たちにとっても大きな励みになると思います。本当におめでとう」 |
<動画> |
クラシックのピアニスト
出身地:静岡県
外交官の父と12歳で渡欧、ウィーン音楽院に学んだ。
1963年にウィーンでデビュー
1970年の第8回ショパン国際コンクールで2位入賞(日本人としては現在に至るまで最高位)。
1972年以降はロンドンを拠点に活躍。
日本人のピアニストとしては別格の評価を得ている。
2005年に日本芸術院賞、文化功労者
2009年には大英帝国の勲章「デイム」(男性のナイト=勲爵士=に相当)の称号を授与された。
モーツァルト演奏には定評があり、1980年代後半にピアノ協奏曲全集を録音した。
長年ロンドンを拠点に活動している。
受賞年 | 2001年(第43回) |
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部門 |
最優秀ニューエージアルバム賞
※1986年に創設されたヒーリング(いやし系)音楽を扱うジャンル。 喜多郎はヒーリング音楽の元祖の一人。過去にアイルランドの歌姫エンヤらが受賞している。 |
受賞作品 | 「シンキング・オブ・ユー(Thinking of you)」 |
参照 | グラミー賞公式ページ→ |
受賞時の年齢 | 48歳 |
説明 |
7枚のアルバム。
シンセサイザーの電子音を巧みに組み合わせた神秘的な音楽。高い精神性を宿した癒しのサウンド。聴く人の郷愁を誘い、世界的な人気を呼んだ。 自然への感謝と研ぎ澄まされた五感によって、さらに深い表現力を養った結果生み出された作品だった。また、探求する方向が心の内面に向かった。 グラミー賞にノミネートされたのは7度目だった。 1987年にシングル曲「THE FIELD」がノミネートされて以来、14年間で6回のノミネートを勝ち取ってきたが、最後に涙をのんできた。 デビュー2年後から米コロラド州ボールダーに移り住んだ。標高2800メートル、ロッキー山脈のふもとに住居兼スタジオを構えた。大自然の中で、山の音に耳を傾けて暮らす。 音さえも吸い込むように降る雪の中で、瞑想にふけりながら曲を作る。 東洋的な世界観を感じさせる喜多郎さの作品は、疲労感をほぐすサウンドとして評価が高まった。欧州の病院では喜多郎の音楽を精神療法に取り入れているところもある。 名前の由来は、長髪だった高校時代に「(ゲゲゲの)鬼太郎」と呼ばれていたからだ。 |
受賞コメント |
「15年間、こちらに居を構えて音楽作りに励んできたのが、ようやく実を結んだ。全米で認められるのは、世界で認められたということ。次はオスカー(アカデミー賞)を狙いたい」
「授賞式で名前を呼ばれたときは、一瞬『エッ』っていう感覚だったかな。ノミネート7回は名誉だけど、内心は今度もダメだろうと小さくなっていましたからね」 |
祝福コメント |
父、高橋博さん(当時75歳)「息子は、自分の最終目標はグラミー賞と言っていた。本人の努力と前向きな姿勢が実ったんでしょう。多分、今でも譜面は使っていないと思う。見たり、聴いたり、思ったりしたことを直接楽器にぶつけていくんです」
豊橋商業高校の軟式テニス部の顧問、夏目憲二氏「おとなしいが、ユーモアのある生徒だった。当時、胃の調子が悪いと言って練習を休んだことがあったが、今にして思えば音楽の練習をしていたのかもしれないね」 |
<動画> |
本名・高橋正則。
1953(昭和28年)2月4日、愛知・豊橋市生まれ。
高校卒業後、ロックグループを結成。グループ解散後、東南アジアを旅する。
1972年、欧州でシンセサイザー奏者クラウス・シュルツと出会いシンセサイザーを学ぶ。その後、帰国。
1978年、初アルバム「天界」を発売しデビュー。
1979年NHK「シルクロード」でのテーマ曲を作曲し脚光を浴びた。
1983年に山口組3代目長女・田岡由伎さんと結婚した。(1990年離婚)
1985年、米国でアルバム6枚を発売。
1986年米国ゲフィンレコードと契約し全米進出。アルバム「天空」を発売。
1987年には日本人初の全米ツアーを行い成功を収め、世界的なミュージシャンとして認知された。
1988年 シングル「ザ・フィールド」がグラミー賞に初ノミネート。
1989年に米国へ移住
1990年、アルバム「古事記」が全米ビルボードのヒットチャートの「ニューエージアルバム部門チャート」で8週連続1位。
1993年には米ゴールデン・グローブ賞の作曲賞を受賞。
1996年 高校時代からの知人でキーボード奏者のKEIKOと再婚。
受賞年 | 1989年(第31回) |
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部門 |
映画音楽賞
【英語名】Best Album Of Original Instrumental Background Score Written For A Motion Picture Or Television |
受賞作品 | 映画「ラスト・エンペラー」劇伴(サントラ) |
参照 | グラミー賞公式ページ→ |
受賞時の年齢 | 37歳 |
共同受賞者 | デビッド・バーン(米国バンド「トーキング・ヘッズ」)
蘇聡(スー・ツォン) ※筆頭受賞者は坂本龍一 |
説明 |
西洋と中国の雰囲気が入りまじり、近代と現代の時代色を併せ持った音楽として称賛された。アカデミー賞の作曲賞も受賞した。
作曲は、坂本龍一、トーキング・ヘッズのデビッド・バーン、中国人作曲家・蘇聡の3人が担当した。テーマ曲などは坂本龍一がメインで手掛けており、坂本が受賞者名簿の筆頭に位置づけられた。 映画「ラストエンペラー」は中国・清朝最後の皇帝で、のちに旧満州国皇帝にもなった溥儀(ふぎ)の生涯を描いた。英国、イタリア、中国の合作。アカデミー賞の作品賞も受賞した。 坂本龍一はクラシック畑の出身だが、ロック、ジャズ、現代音楽と関心の領域は広く、1982年には自ら主演した大島渚監督の日英合作映画「戦場のメリークリスマス」の音楽も担当した。 1978年、キーボード奏者として「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)の結成に参加、シンセサイザーを駆使した電子音楽「テクノ・ポップ」が注目を集めた。 |
音楽配信 | アマゾン→ |
<動画> |
1952年(昭和27年)1月17日、東京都生まれ。
東京芸大大学院卒。
1978年細野晴臣、高橋幸宏とYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)を結成。当時珍しかったシンセサイザーを押し出したポップな楽曲が受け、テクノポップブームを生んだ。
1983年映画「戦場のメリークリスマス」に出演。音楽も担当した。
1988年公開の映画「ラスト・エンペラー」で音楽を担当し、アカデミー賞やグラミー賞を受賞。
受賞年 | 1987年(第29回) |
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部門 |
最優秀アルバム・パッケージ賞
(別名:アルバム・ジャケット賞) 【英語名】Best Album Package (現:Best Recording Package) |
受賞作品 |
マイルス・デイビスのアルバム「TUTU」(ツツ)のジャケット
※南アフリカの黒人隔離制度(アパルトヘイト)に反対し、ノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツ主教をテーマにしたアルバム。 |
<作品> |
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参照 | グラミー賞公式ページ→ |
受賞時の年齢 | 48歳 |
共同受賞者 | なし(単独での受賞) |
説明 |
「ジャズの帝王」と呼ばれたマイルス・デービス。その超アップの表情を、白と黒のコントラストの中に配置した。大胆で力強い構図だった。
写真は、世界的なカメラマン、アービング・ペンが撮影した。目の光、皮膚、シワと六十歳の偉大なアーチストを余すところなくとらえた一枚を素材として選んだ。 マイルスとの出会いは3年前。以来、「アーチスト同士として尊敬し合う仲」だったという。一緒にメトロポリタン美術館に行くなど、ジャケット製作でタッグを組んだ。ただ、デザインを引き受ける条件として、アイデアを含めた一切を任せてもらったという。大スターが、一言もわがままを口にしなかった。 |
<動画> |
東京芸大工芸科を卒業した後、資生堂社員としてデザイナーの一歩を踏み出した。1970年代、パルコや角川書店の斬新な広告を手がけ、舞台美術、映像美術へと創造対象を広げた。